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06 Global Thinking|グローバル〈尾崎裕哉に問う。7つのこと〉

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尾崎裕哉を語る上で、「グローバル」というキーワードは外せない。Digital 1st Single「始まりの街」は彼の故郷・ボストンでの日々を歌ったように、彼のルーツの大部分には米国の存在がある。だからこそ、2017年3月22日にリリースした1st EP『LET FREEDOM RING』というタイトルや楽曲には、グローバルで多様な世界観が詰め込まれている。尾崎裕哉のこの一面に迫れば迫るほど、彼の本質が見えてくる。

Interviewed by Taiga BEPPU
Supervised by Daisuke YOSUMI

尾崎裕哉インタビュー連載
#01 Life Story
#02 Music is my Life
#03 LET FREEDOM RING
#04 Social Message
#05 My Father
#06 Global Thinking
#07 SECRET Q&A

 

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ライブに隠されたBGMのこだわり

Q1 前回のライブツアー『LET FREEDOM RING TOUR 2017』の開演前・終演後のプレイリスト(BGM選曲)は、裕哉さん自身によるものですよね。邦楽から洋楽まで選曲が本当にバラエティに富んでいて、尾崎裕哉の単独ライブの見どころのひとつになってますよね。

あのプレイリストは本当に僕が好きな曲だけを選び、曲順にもこだわったものです。自分の音楽性に深い影響を与えたのから、思い出深い名曲。さらに、その時のちょっとしたマイブームの曲を入れてみたり。時代やジャンル、言語や有名無名に関係ない、完全ボーダレスになっています。アーティスト名を一部明かすと、John Mayer、Ed Sheeran、Kendrick Lamar、Tuxedo、向井太一、KOHH、iriとか。

洋楽の中でもけっこういろいろ好みがあって、ブルース、ロック、ヒップホップ、ポップス、R&Bと、けっこういろいろ聴きますね。最近だと、Tom Mischとかケンドリック・ラマーが好きで。次の秋のホールツアーでもぜひ楽しみにしててほしいですね。

 

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Q2 プレイリスト以外にも、1st EP『LET FREEDOM RING』のリード曲「サムデイ・スマイル」もそうですが、裕哉さんのあらゆる表現活動において、思考の枠組みは日本だけにとらわれず、常に世界に向いていますよね。

僕は今、J-POPの中で活動しているので、常にその文脈を大切にして曲作りをしています。とは言え、洋楽的な世界観は勝手に滲み出てくるものだし、それは自分の個性だとポジティブに思っています。

というのも、5歳の時に母親と2人で米国のボストンに渡り、米国で10年間暮らしたことで、現地の音楽が体に染み付いているんですよね。14歳までは尾崎豊か、マドンナか、aikoか、宇多田ヒカルくらいしか聴いてこなかったんですが、学校の友人に誘ってもらってギターを始めてからは、どっぷり洋楽の世界に傾倒していきましたね。

 

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米国での学校生活

Q3 5歳で米国生活はどんなものでしたか?

ボストンのブルックライン区立学校のAmos A. Lawrence Schoolの、幼稚園と小学校に通いました。当時のボストンには日本人がたくさん住んでいて、ブルックライン区は特に多く、全校生徒のうち3割近くは日本人でした。最初の2日間は「日本に帰りたい」と泣いていたらしいけど、3日目には驚くほど順応していたようで(笑)。

この学校は僕のアメリカ生活の原点とも言えるんですが、馴染みやすかった反面、日本人とばかり一緒にいて英語はあんまり上達しませんでした。同時に、日本人以外にも様々な国籍や人種の子供たちが集まっていて、メキシコ人が差別的なことを言ってきたことで喧嘩になって職員室に呼び出されたことなんかもありましたね。

その後、小学校6年生の時にコネチカット州の全寮制のRumsey Hall Schoolに転校。しかし治安の悪い学校だったので、1年後には全寮制男子校のFessenden Schoolに転校。さっき話したインタビュー第1回で登場)、ギターを教えてくれた友人は台湾系アメリカ人だったんですが、他にも、人種を問わず多くの仲間に巡り会いました。

 

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Q4 ギターを誘ってくれたその友だち以外に、音楽と関係することで印象に残ってることはありますか?

韓国出身の寮のルームメイトのMichealという親友がいて。よく一緒に漫画を読んだり、韓国語の読み書きを教えてもらっていました。

音楽のこととかはあんまり話したことがなかったんですが、ある日、彼が韓国語の「I LOVE YOU」を聴いていたんです。なぜその曲を知ってるのか聞いてみると、「今韓国で一番流行ってる曲だよ」と。それが僕の父親の曲だということを伝えると、次の日には学校中の韓国人に知れ渡っていました。

ルームメイトや同じ学校の生徒が自分の父親の曲を知っていたことが純粋にうれしかったし、誇らしかった。それと同時に、いいメロディは国境を越えて人を感動させられることを知りました。この音楽の原体験ともいえる出来事は、僕の音楽人生においてはとても大きいですね。

 

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「クワイヤー」というもう一つの原点

Q5 その後ギターにハマって、洋楽の世界にのめり込み(インタビュー第2回を参照)。帰国後に通ったインターナショナルスクールではバンドを始めたんですよね(インタビュー第1回を参照)。それ以外には、何か音楽と関係することはしていたんですか?

学校では、クワイヤー(合唱)の授業をとっていました。宗教曲からクラシック、さらにスティービー・ワンダーのようなポップな曲も練習して、学内のコンサートで発表したり、全国のインターナショナルスクールの大会にも出ました。

クワイヤーには男女それぞれの2つずつの計4パートがあって、僕は男性の高い方のテノールを担当。総勢30人くらいで奏でるハーモニーは本当に美しくて、自分の歌声が全体と一体となる感覚がたまらなく心地よかった。僕らの十八番はRay Charlesの「Georgia on my mind」でしたね。

僕は昔から歌うのが好きだったんですが、実はちゃんと歌う練習したのはこれが初めてで。中に、現在プロのシンガーとして活躍するMay J.さんや青山テルマさんもいて、当時から圧倒的な歌唱力だったことをよく覚えています。今思うと、ものすごい環境で歌っていたんだなと思いますね。

 

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海外経験が多いからこそ、こだわりがない

Q6 日本でも海外の楽曲を、しかもクワイヤーという形で練習していたのが裕哉さんらしいです。その後、楽曲制作の基礎を学ぶべく参加したが、ボストンのバークリー音楽学校の短期プログラムに参加。これもまた海外ですね。

僕は日本だとか海外だとかあまり意識しているわけじゃなくて、単純に当時自分の求めていたトレーニングプログラムが日本にはなくて、海外だけだったんですよね。特にバークリーは世界各国からミュージシャンを志す人が集まってくる。それに、バークリー音楽学校の一番の目当は、最も尊敬するJohn Mayerも習ったというPat Pattisonの授業を受けるためでした。

「ソングライティングの90%はshit(クソ)だ。ソングライターの仕事はその90%をなるべく早く埋めることだ。だから、shitを書くことを恐れるな。残りの10%は良いものしかできなくなるのだから」

彼はそんなことを教えてくれました。これって英語だろうが日本語だろうが、作曲する時には活かせる考え方ですよね。実際に僕は、この学びを経て、このプログラムの最後の発表会では、今でも歌い続けている「Road」という曲を歌いました。

だから僕は、あれ以来ずっと曲を書き続けてこれたし、これからも書き続けて行きたいと思っています。

 

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Q7 裕哉さんの新たな一面が垣間見えたような気がします。このインタビュー連載も終盤なので、『LET FREEDOM RING』をリリースし、多くのフェスに出演し始めた裕哉さんの今後に向けた展望について伺わせてください。

僕の中には、国内や国外に関係なく、いろんな領域が存在し、複数の軸があります。それぞれのいいところを組み合わせて表現している、という感覚があるんです。

例えば、僕の音楽性は「尾崎豊」と「洋楽」という両軸がある。同じように、音楽フェスでは、バンドをバックにパフォーマンスすることもあれば、一人でアコースティックギターで弾き語りでも歌うこともあって、どちらも「尾崎裕哉」なんです。

そんな僕の中に眠る、様々な領域や軸をこれからもっと表に出して行きながら、僕にしかない、ベストバランスを見つけて表現していきたいと思っています。『LET FREEDOM RING』をリリースし、文字通り自分自身を解放した今、次作EPもほぼ完成し、さらなる楽曲制作も進めています。

僕の歌いたい本質やこうでありたいという理想はブレないけれど、この先自分がどう歩んでいくのかまだわかりません。だけど、しっかりと今を生きて、目の前のお客さんと向き合って、自分にしか歌えない歌を、歌い続けていきたいです。

初の映画主題歌『Glory Days』尾崎裕哉&京田知己総監督コメント

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感動のTVシリーズから12年―新たに描かれるレントンとエウレカの物語『交響詩篇エウレカセブン ハイエボ リューション』が、劇場3部作として待望の映画化を果たす。今回、シンガーソングライター尾崎裕哉が本作で、新曲『Glory Days』で、初の映画主題歌に挑む。

▷公式サイト:eurekaseven.jp
▷NEWS「新曲『Glory Days』が自身初の映画主題歌に決定!


 

 

尾崎裕哉コメント

今回、初めて映画の主題歌を担当させて頂けるという事と、特に自分はアニメが好きで、その中でも『エウレカセブン』のような素晴らしい作品に携われることを凄く光栄に思います。

今回の楽曲は、作詞はいしわたり淳治さんと、作曲は蔦谷好位置さんと一緒に作らせて頂きました。実は、アップテンポの曲を作るのが僕、初めてだったんですけど、お力添えあって、なんとかうまくいったかなと思います。すごく力強いサビができたので、それを組み立てるまでのメロディを何回も繰り返して考えました。とてもいい感じになったと思います。早く劇場で聞きたいです。

僕はレントンと境遇が似ているところがあって、レントンが葛藤しているところとか「ああ、こういうことあったなぁ」と思っていました。反発しながらも、根本には寂しいという気持ち、「やっぱり父親に会いたい」という気持ちはお互いすごくあったわけで、そこの部分を想像していました。

レントンと同じ14歳の頃にはすでに、憧れというか、音楽をやりたいなぁという気持ちはあったので、今こうして作品を作るような職業につけたのは嬉しいことです。『エウレカセブン』は、たくさんのファンの方の期待を背負っていると思うので、その期待をいい意味で裏切ったり、超えていけるような作品になったらうれしいです。

 


 

京田知己総監督コメント

フィルムにとって音楽は非常に重要なファクターではあるものの、そのめぐりあいについては偶然や奇跡に委ねるしかないのだ......というのは、幾つかの監督作品や参加作品を経た上でたどり着いた僕なりの結論です。

今回の映画がレントンという男の子の幼年期の終わりを描く物語になると決まった時に、出来ることなら映画の最後に流れる曲は歌であって、それも男の子の歌であって欲しいなと思っていました。しかしどのような歌が、どのような方が歌った音楽が良いのか、自分たちには皆目見当もつかないでいました。

そんな中、たまたま脚本打ち合わせで iTunes を開いた時、本当にたまたまトップ画面に尾崎裕哉さんのバナーが流れていて、そして本当に勢いでクリックして流れてきた『サムデイ・スマイル』を聴いた瞬間に、そこにいた全員に「ああ、今度の映画の最後を飾るのは、この人の曲だ」という空気が流れました。そう、まさしく「エウレカ!」な気分になったのです。

もちろんハードルが無かった訳ではありません。大人の事情というものもありました。それ以上に僕らが気にかけたのは、これは偶然なのですけれども、自分たちの作っているフィルムの主人公レントンの設定と尾崎さんの境遇が似ているように思えたことでした。ですが快諾をいただき、デモを聴かせてもらい、尾崎さんご本人にお会いして色々と話を聞かせてもらい、そして気づかされました。

今の自分だからこそ語れるものがあるのなら、それは今語るべきなのだ、と。

自分たちは今回、運命や境遇を受け入れて、それでも前へ未来へ進み出す男の子を描くことが「今の」自分たちに語れることだと思い、フィルムを作りました。そして尾崎さんの楽曲も、そのどれもが「今の」尾崎さんではないと歌えないものに思えました。そんな「今」を描こうとしたからこそ、僕らは邂逅出来たのかもしれません。その結果としての『Glory Days』という曲は、僕にとっての、僕らにとっての宝物のような存在になりました。

願わくばこの曲の流れる映画を見て劇場を出た後に、いや映画を見ていなくても街中でこの曲を聴いた全ての人の行く先に、輝ける未来があらんことを。

京田知己

05 My Father|父・尾崎豊〈尾崎裕哉に問う。7つのこと〉

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「誰もが、誰かの二世である。」
尾崎裕哉の著書『二世』の中表紙にはこんなフレーズが綴られている。2歳で父を亡くした裕哉には、父との記憶はない。父が遺した音源や写真集、ライブ映像を一つひとつ食い入るようにみたり聴いたりして、思いを馳せることしかできなかった。生まれながらに宿命を背負った裕哉にその心の内を聞いてみると、一瞬空を見上げ、こちらをまっすぐ見つめて語りはじめた。

Interviewed by Taiga BEPPU
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裕哉にとっての「尾崎豊」

Q1 改めて、裕哉さんにとって尾崎豊はどんな存在ですか?

尾崎豊は僕にとって父であると同時に、憧れのアーティストでもあります。物心つく頃からずっとそうでしたし、こうして僕自身がアーティストとしてデビューしても、それは変わりません。

そして、「尾崎豊の先を歌いたい」「父親の成し遂げられなかったことを成し遂げたい」という想いを、ずっと抱き続けて活動をしています。

 

Q2 裕哉さんはいつもお父さんのことを「彼」と言いますよね。なぜなんですか?

僕も他の多くの方々と同じように、どこかで尾崎豊のいちファンなんですよ。というのも、僕が2歳の時に亡くなっているので、彼の記憶はないですし、いつも知るのは媒介を通しての間接的な情報ばかり。だから、「彼」と三人称で呼ぶのが僕にとっては一番自然なんですよね。

母親の話によると、僕はもう2歳の頃から尾崎豊のマネをしてたらしいんです。ライブの映像はもちろんのこと、すでに音源や写真集も見ていたそうで。

僕は、物心つく頃から尾崎豊のことをよく知っていたし、カッコいいと思っていました。ある意味、そんな感覚のまま今に至る、と言えるかと思います。

 

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少年時代

Q3 そんな尾崎豊に影響されて、渡米した5歳の頃にはミュージシャンになりたいと思うようになったんですよね(インタビュー第1回参照)。どんな気持ちがあったんですか?

とにかく父親のようになりたかったんです。

12〜14歳頃から音楽的な耳で彼の曲を聴くようになり、尾崎豊独特の喉で音をとって、顎ビブラートさせる技法もマスターしました。その頃は、尾崎豊は常にそばにいて、耳を澄ませば尾崎豊の歌声が聴こえる、そんな状態で。自分がどうなりたいということではなく、ただ無邪気に「尾崎豊みたいになりたい」と思っていたんですよね。

真似しているうちに、僕と尾崎豊にはある共通点があることに気づいたんです。それは「声」です。部屋にこもって父親の曲をかけ、それにあわせてよく歌っていたんです。すると、息遣いやビブラート、ピッチ感など、すべてがシンクロして、尾崎豊が歌ってるのか、自分が歌ってるのかわからなくなるような錯覚さえありました。

 

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父との距離感の変化

Q4 そんな少年時代を経て、いつから父親と距離を取れるようになってきたんですか?

以前のインタビューでも話したように(インタビュー第2回参照)、中学2年性の時にルームメイトのケイラブに出会って、ギターを始め、洋楽を聴くようになってからですね。僕はギターが好きになって、ギターが上手いアーティストになりたいと思った時、父親以外の別の理想像が自分の中に芽生えたんです。

もちろん今でもライブの前には尾崎豊の映像を見たりするけど、幼かった頃に見ていた眼差しとはまったく違うんです。僕は僕で、彼は彼。その上で、彼はいつでも僕の憧れの一つなんです。

 

Q5 中学を卒業すると、帰国して日本のアメリカンスクールに進学しましたよね。日本ではどうでしたか?

せっかく父親離れができたんですが、帰国してから自分が「尾崎豊の息子」であるということを隠すようになっていました。日本では尾崎豊の息子として紹介されることが多かったので、重荷に感じてしまったんです。そのとき改めて、当時26歳だった母親が僕を連れてアメリカへ連れて行ってくれたことの重要性を身にしみて感じましたね。

けれど、こうなることは頭ではわかっていたつもりでした。
中学生の頃、日本に一時帰国して親族で集ってカラオケに行くと、尾崎豊のことを歌ってほしいとよく懇願されたので。日本ではこういうことはきっとよくあることだろうから覚悟しようと。だけど、心がついて来なくって。

大学生になると、学内では良かったものの、自分の映った映像などがネット上で話題になるなど、学外では自分の知らないところで名前だけが一人歩きし、その看板をどうやっても意識せざるを得なくなりました。次第に、ぼくは写真に写りそうになったら背を向けたり、下を向いたりするようになり、できるだけ隠れる癖がついてしまいました。

ただ主体的に表に出て、自分の伝えたい表現をすることよって、その癖も治っていきました。

東京のInter FMで『Music Saves the Earth』という番組のナビゲーターを何年かやらせていただいたり、そのきっかけで機会をいただいた「フジロックフェスティバル」で歌ったり。もちろんどんな現場でも自分から「尾崎豊の息子」であることを言っていたわけではありませんが、徐々にありのままの自分で表現できるようになっていきました。

 

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「尾崎裕哉」として活動する理由

Q6 国外で音楽活動したり、芸名を使ったりして、「尾崎豊の息子」であることを隠して活動することもできたと思います。なぜそうはしなかったんですか?

多分、隠したところで、声と面影でバレてしまうと思いますけどね(笑)。上手く言えてるかわからないですけど、僕のアーティストとしての原点は尾崎豊だということはもちろんだし、ある意味その「尾崎」の名前を背負うことができるのは僕しかいない、という自信がある。「尾崎らしさ」というものがあるのだとすれば、それは声かもしれないし、生き様かもしれないし、ステージパフォーマンスかもしれないけれど、それら全部含めて僕だからこそ表現できる「尾崎らしさ」があると思っています。2010年代の「尾崎らしさ」を追求することも美なのかなと。彼はきっと永遠に憧れの存在なんですよね。

そして、アメリカなどの異国ではなく、日本で活動することにしたのは、やはり僕が日本人だからです。たとえ僕が英語で歌ってアメリカでデビューしたとしても、「英語じゃどうやってもアングロサクソンに勝てるわけがない」というのが僕の持論で(笑)。それと、僕にとって日本語の方が歌いやすいんですよ。

 

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彼が教えてくれたこと

Q7 最後に改めて、尾崎豊に対する今の思いを聞かせてください。

尾崎豊は僕に「誠実であり続けることの大切さ」を教えてくれました。

彼は、最後まで自分の信じる正しい答えを歌い続けた。それは大きく言うと、「生きることの本質を歌う」ことだと思うんです。

たとえ彼のような、強烈な眼差しで自由への渇望を表現できなくても、「生きることの本質を歌う」ことなら僕にもできる。そして、父親が遺してくれたこの声と共に、僕にしかできないやり方で、そういうアーティストであり続け、生きることに誠実でありたいと思っています。

04 Social Message|社会起業家〈尾崎裕哉に問う。7つのこと〉

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「Music Save the Earth」というメッセージを掲げて表現活動を行う尾崎裕哉。インタビュー連載〈尾崎裕哉に問う。7つのこと〉Vol.4では、「アーティストより実業家の方が近いかもしれない」と話す彼のその真意とこれまでの活動、そしてこれからの展望についてまとめてみたい。

Interviewed by Taiga BEPPU
Supervised by Daisuke YOSUMI

尾崎裕哉インタビュー連載
01 Life Story
02 Music is my Life
03 LET FREEDOM RING
04 Social Message
05 My Father
06 Global Thinking
07 SECRET!!

 

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音楽で社会を動かす

Q1 尾崎裕哉の強烈な個性として「社会起業家」としての顔がありますよね。『LET FREEDOM RING』という言葉も、マーティン・ルーサー・キング牧師のスピーチに対するオマージュなんですよね?

今はまだ社会起業家と呼べるかどうかわかりませんが、少なくとも志は共通しているかと思います。オマージュに関しては、もともとキング牧師のことをものすごくリスペクトしていたので、彼の言葉を使いたかった。

小学校、中学校と米国で過ごしたので、米国の歴史について勉強していたんですが、その多くが黒人奴隷にまつわる話なんですよね。だからこそ、白人の黒人に対する人種差別に正面から異を唱え、差別撤廃に大きく貢献したキング牧師は、超一流のスピーチライターとして認められている。

「愛なき力は暴力であり、力なき愛は無力である」

たとえば、僕は彼のこのフレーズも大好きで、学生時代にやっていた自分のラジオでも使ってたりしてました。一番有名なのはリンカーン・メモリアルの前で行った「I Have a Dream」スピーチですかね。

キング牧師は言葉で世界を動かしてきた人だと思うんです。じゃあ、僕にとって、それは何なんだろうか? それは音楽だと。音楽で社会を動かすことができる。僕はそう信じているんです。

  

ジョン・ウッド氏との出会い

Q2 社会に対するそのような想いを持つきっかけは何だったんですか?

人生で一番衝撃を受けたのは、国際NGOルーム・トゥ・リード(RTR)創設者兼共同理事長のジョン・ウッドのお話を聞いた時のこと。ちょうど僕が大学の進路に迷っている時、高校に講演をしに来てくれたんですよね。

ルーム・トゥ・リードは、図書館や学校を建設したり、現地語図書の出版、女子教育などを行っている非政府組織。「1時間にひとつ、世界のどこかに図書館を作っています」という話を聞いた時、ものすごい衝撃を受けて。そんな組織を自らつくって、自分とは無縁だった人に対して、しかもそれを全世界で慈善活動をしている。その時、僕も彼のように社会に貢献できるような人間になりたいと素直に思ったんですよね。

(下写真は、ジョン・ウッド氏にサインをもらう裕哉)

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ルーツ①「米国育ち」

Q3 そこで衝撃を受ける人もいれば、そうじゃない人もいると思います。その中で裕哉さんはどうしてそこまで感銘を受けたと思いますか?

米国で育ったことも大きいと思いますね。僕自身、米国の学校では校外活動の一環として、日本でいう「ホームレス」の方々の一時宿泊施設である「ホームレスシェルター」に行ったりして、支援活動をしてたんですよね。

欧米では著名人、特にアーティストが社会的な活動をしたり、チャリティーやボランティアをすることって日常的なこと。たとえばレディー・ガガはいじめ撲滅を訴えるためにホワイトハウスに乗り込んだり、支援組織「ボーン・ディス・ウェイ財団」を設立してる。

現大統領のドナルド・トランプが当選した時には、トランプタワーの前で「Love trumps hate.」(「愛は憎しみに勝る」という意味)と書かれた紙を掲げたのも記憶に新しいし、東日本大震災ではいち早くチャリティーオークションや義援金を送ってくれましたよね。他のアーティストでも、たとえばマドンナやビヨンセはLGBT(性的マイノリティー)の権利向上のための活動を積極的にしていたりもする。

ただ、ここで大事なのが、僕の尊敬するジョン・メイヤーが言っていたように、「自分ごとにできる社会問題と関わることが大切」だし、無理に共感する必要はない。日本ではあまり知られていないかもしれないですが、彼も退役軍人をサポートするためのファンドを創設していたり、チャリティーに積極的なんですよね。

もちろん、著名人が慈善活動をすることに関していろんな意見があるかもしれない。それでも、アーティストである以前に、いち個人として、社会問題について異議を唱えたり、それに対して働きかけることは、奇をてらうことでもなく、当然のことだと思うんですよね。害がないなら、やらないよりやった方がよくないですか?

 

ルーツ②「家庭環境」

Q4 それ以外に自分のルーツを感じることはありますか?

僕自身のルーツにあると思いますね。人生をさかのぼってみると、社会問題に対して何かをしたいという気持ちはずっとあって。

というのも、僕の身内には身体障がい者がいて、それを支える家族がいる。身近でみていたからこそ、努力しないといけないことが多いのも分かるし、だからそれをサポートしたいという思いがあって。きっと、そういう身近なところの影響もあるのかもしれませんね。

 

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大学・大学院へ

Q5 ご自身でも学生時代には社会問題の研究をされていたんですよね?

高校時代には、ジョン・ウッドとの出会いもあり、「Environmental Science(環境科学)」という授業を受けて地球環境について学びましたね。たとえば、人間の活動がどれだけ自然環境に依存しているのかを示す指標である「エコロジカル・フットプリント」というものがあるんですが、その数字を見ると、このままの生活を続けると自然資源が枯渇することはもう明らかで。

そんな経緯もあって、大学入試では、「MUSIC SAVES EARTH PROJECT」という発表をしました。もともとチャリティーに興味があったから、「このアーティストの曲を歌ったら、1円寄付されます」といった、カラオケをチャリティーコンサート化するというのがそのアイデアでした。試験には無事合格して、SFC(慶応大学湘南藤沢キャンパス)の環境情報学部に入学しました。

大学の卒業論文では、『TABLE FOR TWOから考察する効果的な企業とNPOの協働関係について』というテーマについて研究。「TABLE FOR TWO」というのは、今世界で大きな問題になっている深刻な食の不均衡を解消するための組織のこと。対象となる定食や食品を買うと、1食につき20円が寄付金として、開発途上国の子どもたちの学校給食になるんです。最初は食堂から始まって、今ではレストランやコンビニ、自動販売機、今では国外までプロジェクトは広がっているそうで。この仕組みや応用する方法を研究したものが僕の卒業論文でした。

話せば話すほどディープになってきちゃうんですが、大丈夫ですか?(笑)

とにかく、勉強することが楽しくて楽しくて仕方なくなってきちゃんたんですよね。社会に貢献することって学問として成立してるんだ!?と思って。そうやって自分のやりたいこと、興味があることが勉強できる喜びを知って、どんどんのめり込んで、そのまま大学院に進むことに。

大学院では、「デザイン思考」を研究し、それを音楽業界のイノベーションで適用できないかと模索してみたんですよね。そして、いろいろ調べていった中で、音大の卒業者の3割以下しか音楽で生計を立てている人がいないということを知って、それをなんとかできないかと。

なので、修士論文のテーマは、「音楽家の雇用創出を促す新しいコンサートビジネスと、それを支えるベイズ推論に基づいた機械学習の仕組みの提案」でした。これもなんだか難しそうですが(笑)。できる限り噛み砕くと、ミュージシャンが音楽だけで食べていけない現状に対して、コンサートという視点から解決できないかというのが僕の仮説でした。やっぱり音楽は生演奏が一番ですからね。

「いい音楽が聴きたいお客さん」と「いい音楽を演奏できるけどまだ知られていないミュージシャン」と「いいミュージシャンを支えたい場所のオーナー」の三者をマッチングして、より最適化され、全員の満足度が高いコンサートを自動的に作る。それを、ベイズという人が編み出した定理を用いた機械学習という手法で実現する。さらにそれを誰もが簡単に使えるアプリとしてリリースする。実際にプログラミングして、そのアプリのデモみたいなものは作りましたね。

 

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Q6 社会起業家らしい一面が垣間見えましたね。在学中、学外でもいろんな活動をしていたんですよね?

結構いろんなことをしましたね。スタンフォード大学内のNPO主催のプログラムに参加したり、日本で一番歴史が長いと言われている『日米学生会議』に参加したり。割と真面目に意識の高い学生でしたね(笑)。

あとは、2010年からInterFMで、洋楽紹介番組『CONCERNED GENERATION』、13年から15年まで『Between the Lines』のナビゲーターをしていたとき、キング牧師といった社会活動家を紹介するなどの社会的メッセージの発信もしてました。

最近だと、インドの人権活動家でノーベル平和賞受賞者でもあるカイラシュ・サティヤルティさんと来日記念の「ゲリラシネマ」で対談したり、彼が登壇した『値段のないレストラン』というイベントにシークレット出演して歌ったこともありましたね。

あとは、前回のインタビューでも触れましたが、東日本大震災での出来事も大きかったんですよね。その時にある種、音楽の限界と可能性を感じたんです。音楽は物理的なサポートはできない。だけど、精神的なケアはできるかもしれない。それなら、音楽にできることをまずはやってみよう。実際に1st EP『LET FREEDOM RING』のリード曲『サムデイ・スマイル』もそんな経緯から生まれた作品ですし。アーティストとしての責任だったり、存在意義について考えるきっかけになったのも大きかったですね。

 

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Music save the Earth

Q7 最後に、アーティスト「尾崎裕哉」の今後の展望を教えてください。

僕が目指す人物像は、「アーティスト」というより「実業家」の方が近いんですよね。ジョン・ウッドだったり、ヴァージン・グループの創設者で会長のリチャード・ブランソンだったり、白洲次郎だったり。

ここまで自分の社会起業家的な部分にフォーカスして話すのは初めてでしたが、自分の家庭環境から大学院の研究内容まで、いろんな活動の蓄積があって、一貫して「人のためになることをすること」と「音楽」という2つの軸はブレなかった。ある意味、これは白洲次郎さんのいう「プリンシプル」に近いですかね。これは「僕らしさ」であり、「やりたいこと」そのものでもあるんですよね。

きっと音楽以外にも社会を変える力はいっぱいあると思うけど、僕はあくまでも音楽の人だから、音楽の力を信じ、その可能性をさらに引き出していきたい。そのためには、いい曲を作るだけじゃなくて、音楽業界の構造自体も変えていかないといけないし、人と音楽との関わり方も変えなくちゃならない。アショカ財団のビル・ドレイトンがいうように、魚や釣竿を与えるのではなく、漁業産業自体を変えなければならない。やるべきことはたくさんある。

人はそんな僕を見てミュージシャンと呼んだり、社会起業家と呼んだり、アーティストと呼ぶかもしれない。それは他人が決めること。でも、それらの肩書きは全部僕なんですよね。今は、ただ自分らしい音楽を作って、目の前のお客さんの心に届けるべく歌い続けます。その先に、僕の描く世界があると信じて。

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