SPECIAL

05 My Father|父・尾崎豊〈尾崎裕哉に問う。7つのこと〉

category:

05 My Father|父・尾崎豊.001.jpeg

「誰もが、誰かの二世である。」
尾崎裕哉の著書『二世』の中表紙にはこんなフレーズが綴られている。2歳で父を亡くした裕哉には、父との記憶はない。父が遺した音源や写真集、ライブ映像を一つひとつ食い入るようにみたり聴いたりして、思いを馳せることしかできなかった。生まれながらに宿命を背負った裕哉にその心の内を聞いてみると、一瞬空を見上げ、こちらをまっすぐ見つめて語りはじめた。

Interviewed by Taiga BEPPU
Supervised by Daisuke YOSUMI

尾崎裕哉インタビュー連載
#01 Life Story
#02 Music is my Life
#03 LET FREEDOM RING
#04 Social Message
#05 My Father
#06 Global Thinking
#07 SECRET Q&A

 

A26A3072 のコピー.jpg

 

裕哉にとっての「尾崎豊」

Q1 改めて、裕哉さんにとって尾崎豊はどんな存在ですか?

尾崎豊は僕にとって父であると同時に、憧れのアーティストでもあります。物心つく頃からずっとそうでしたし、こうして僕自身がアーティストとしてデビューしても、それは変わりません。

そして、「尾崎豊の先を歌いたい」「父親の成し遂げられなかったことを成し遂げたい」という想いを、ずっと抱き続けて活動をしています。

 

Q2 裕哉さんはいつもお父さんのことを「彼」と言いますよね。なぜなんですか?

僕も他の多くの方々と同じように、どこかで尾崎豊のいちファンなんですよ。というのも、僕が2歳の時に亡くなっているので、彼の記憶はないですし、いつも知るのは媒介を通しての間接的な情報ばかり。だから、「彼」と三人称で呼ぶのが僕にとっては一番自然なんですよね。

母親の話によると、僕はもう2歳の頃から尾崎豊のマネをしてたらしいんです。ライブの映像はもちろんのこと、すでに音源や写真集も見ていたそうで。

僕は、物心つく頃から尾崎豊のことをよく知っていたし、カッコいいと思っていました。ある意味、そんな感覚のまま今に至る、と言えるかと思います。

 

A26A3259 のコピー.jpg

 

少年時代

Q3 そんな尾崎豊に影響されて、渡米した5歳の頃にはミュージシャンになりたいと思うようになったんですよね(インタビュー第1回参照)。どんな気持ちがあったんですか?

とにかく父親のようになりたかったんです。

12〜14歳頃から音楽的な耳で彼の曲を聴くようになり、尾崎豊独特の喉で音をとって、顎ビブラートさせる技法もマスターしました。その頃は、尾崎豊は常にそばにいて、耳を澄ませば尾崎豊の歌声が聴こえる、そんな状態で。自分がどうなりたいということではなく、ただ無邪気に「尾崎豊みたいになりたい」と思っていたんですよね。

真似しているうちに、僕と尾崎豊にはある共通点があることに気づいたんです。それは「声」です。部屋にこもって父親の曲をかけ、それにあわせてよく歌っていたんです。すると、息遣いやビブラート、ピッチ感など、すべてがシンクロして、尾崎豊が歌ってるのか、自分が歌ってるのかわからなくなるような錯覚さえありました。

 

FullSizeRender.jpg

 

父との距離感の変化

Q4 そんな少年時代を経て、いつから父親と距離を取れるようになってきたんですか?

以前のインタビューでも話したように(インタビュー第2回参照)、中学2年性の時にルームメイトのケイラブに出会って、ギターを始め、洋楽を聴くようになってからですね。僕はギターが好きになって、ギターが上手いアーティストになりたいと思った時、父親以外の別の理想像が自分の中に芽生えたんです。

もちろん今でもライブの前には尾崎豊の映像を見たりするけど、幼かった頃に見ていた眼差しとはまったく違うんです。僕は僕で、彼は彼。その上で、彼はいつでも僕の憧れの一つなんです。

 

Q5 中学を卒業すると、帰国して日本のアメリカンスクールに進学しましたよね。日本ではどうでしたか?

せっかく父親離れができたんですが、帰国してから自分が「尾崎豊の息子」であるということを隠すようになっていました。日本では尾崎豊の息子として紹介されることが多かったので、重荷に感じてしまったんです。そのとき改めて、当時26歳だった母親が僕を連れてアメリカへ連れて行ってくれたことの重要性を身にしみて感じましたね。

けれど、こうなることは頭ではわかっていたつもりでした。
中学生の頃、日本に一時帰国して親族で集ってカラオケに行くと、尾崎豊のことを歌ってほしいとよく懇願されたので。日本ではこういうことはきっとよくあることだろうから覚悟しようと。だけど、心がついて来なくって。

大学生になると、学内では良かったものの、自分の映った映像などがネット上で話題になるなど、学外では自分の知らないところで名前だけが一人歩きし、その看板をどうやっても意識せざるを得なくなりました。次第に、ぼくは写真に写りそうになったら背を向けたり、下を向いたりするようになり、できるだけ隠れる癖がついてしまいました。

ただ主体的に表に出て、自分の伝えたい表現をすることよって、その癖も治っていきました。

東京のInter FMで『Music Saves the Earth』という番組のナビゲーターを何年かやらせていただいたり、そのきっかけで機会をいただいた「フジロックフェスティバル」で歌ったり。もちろんどんな現場でも自分から「尾崎豊の息子」であることを言っていたわけではありませんが、徐々にありのままの自分で表現できるようになっていきました。

 

尾崎裕哉さんワンマン-EXtheater-ノーマルedit-148 のコピー.jpg

 

「尾崎裕哉」として活動する理由

Q6 国外で音楽活動したり、芸名を使ったりして、「尾崎豊の息子」であることを隠して活動することもできたと思います。なぜそうはしなかったんですか?

多分、隠したところで、声と面影でバレてしまうと思いますけどね(笑)。上手く言えてるかわからないですけど、僕のアーティストとしての原点は尾崎豊だということはもちろんだし、ある意味その「尾崎」の名前を背負うことができるのは僕しかいない、という自信がある。「尾崎らしさ」というものがあるのだとすれば、それは声かもしれないし、生き様かもしれないし、ステージパフォーマンスかもしれないけれど、それら全部含めて僕だからこそ表現できる「尾崎らしさ」があると思っています。2010年代の「尾崎らしさ」を追求することも美なのかなと。彼はきっと永遠に憧れの存在なんですよね。

そして、アメリカなどの異国ではなく、日本で活動することにしたのは、やはり僕が日本人だからです。たとえ僕が英語で歌ってアメリカでデビューしたとしても、「英語じゃどうやってもアングロサクソンに勝てるわけがない」というのが僕の持論で(笑)。それと、僕にとって日本語の方が歌いやすいんですよ。

 

尾崎裕哉さんワンマン-EXtheater-ノーマルedit-156 のコピー.jpg

 

彼が教えてくれたこと

Q7 最後に改めて、尾崎豊に対する今の思いを聞かせてください。

尾崎豊は僕に「誠実であり続けることの大切さ」を教えてくれました。

彼は、最後まで自分の信じる正しい答えを歌い続けた。それは大きく言うと、「生きることの本質を歌う」ことだと思うんです。

たとえ彼のような、強烈な眼差しで自由への渇望を表現できなくても、「生きることの本質を歌う」ことなら僕にもできる。そして、父親が遺してくれたこの声と共に、僕にしかできないやり方で、そういうアーティストであり続け、生きることに誠実でありたいと思っています。

PAGE TOP